4. 勇退の朝
まえがき
場面は東京へ。一人の男が教師生活の終焉を迎えます。
ストーリー

東京都足立区荒川の土手沿いの区立中学校の校庭には生徒が整列しています。少子化の影響か団塊の世代には考えられないほどの少ない人数です。どうやら朝礼が行われているようです。
一人の男性が朝礼台に上がろうとしています。一段一段をゆっくりと踏みしめ、ああこれで終わりなんだと寂しさが体を包みます。よれよれの着古した背広が彼の教師生活の長さを表しています。よっこいしょっと登り切りマイクの高さを背丈に合わせて下げながらゆっくりと生徒を見渡しました。
「皆さんおはようございます。私も教師になった頃は若く元気で皆さんのお兄さんになろうとやる気に満ちていました。毎朝校門で登校する皆さんにおはようと声をかけて38年経ちました。今日で私の教師生活は最後となります。私がいなくなってもやる気に満ちた若い先生方が皆さんを見守り指導して行きます。これからも皆さんの目標に向かって元気に進んでいって下さい。ありがとう。」
朝礼で挨拶し、同僚に見送られて職員室を後にした国語教師の坂元は、学校へ続く土手を逆に歩きながら
「ああ、もうここを歩いて学校へ通勤することはないんだな」としみじみとこの38年間の教師生活を振り返ります。
「めでたくもありめでたくもなし、か」
坂元は駅前のカフェでいちごのショートケーキを2個買いました。初めての奥さんとのデートで、ここのショートケーキを食べたことを思い出したのです。
「あの時は、緊張して会話が続かなくて、3個食べたらトイレで吐いたな。嫁さんが背中をさすってくれて、ああこの女と結婚せにゃと思ったんだよな。」
当時はバタークリームのケーキにクリーム製のピンク色のバラと真っ赤なドレンチェリーが乗っていて、アラザン(銀色の粒)が3粒ついてました。バタークリームのケーキは食べ過ぎると吐き気がしたのは昭和生まれの懐かしい思い出です。
「ただいま」と長年住んだ公団賃貸住宅の自宅に入ると、奥さんが台所のテーブルでノートを広げて計算しています。
「おい、ケーキ買ってきたぞ。」
「あっ、お帰り。」と、奥さんは立ち上がり改まって言いました。
「八造さん、お疲れさまでした。」
「それはお前さんも同じじゃないか。」
そうです、奥さんもことし市外の中学校の保健教諭を定年退職したのでした。
「何やってんだ。」
「えへへ、退職金の使い道を考えてたの。」
「なんだ、もうそんなこと考えてるのか。で、いくら位あるんだ。」
「そうねえ、二人合わせると 5,000万円ちょっとかしら。」
「ほお、結構あんな。もらったら全部出してテーブルに積んでみるか。」
「何バカなこと言ってんのよ。そんな積み上げるほどはないわよ。それよか、一八と住みたい。家を買おうよ。」
妻は長男夫婦との同居を長く望んでいたのです。これまでお嫁さんとも仲良くやっていたようです。
「そんな、家買ったら一発でなくなっちょうよ。」
「大丈夫よ、半分出して、後は親子ローンにすれば。」
そういえば日曜日にチラシを見比べては住宅展示場に行きたいとか言ってたっけ。
「2世帯住宅にするの。」
「いくらするんだ?」
「あれこれ入れて全部で 6,000万円よ!」
「ひえ~!」
坂元は早く再就職先を探そうと思いました。とりあえず彼は長い髪を切ることにしました。
解説
親の願い
母親は息子を手元に置いておきたいと願い、父親は娘にそう想う。子供には親のことなど考えず自由に生きなさいと言ってはいるが、実は寂しいのです。その想いが高じて二世帯住宅を夢見るのですが。








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