37. 霞会館

2024年8月25日

まえがき

 栗原美雪、坂本八造、金田俊哉は特別傍聴室から国土防衛会議を見学します。

ストーリー

霞ヶ関ビル

 公益財団法人みやこ財団の地下2階の特別会議室では「国土防衛会議」が始まろうとしています。

 会議室の左側面の壁の上方には大きなガラスがはめ込まれており、会議の様子を一覧できる特別傍聴室が設けられています。そこには、ガラス窓に面して左右に各5席のシートが並んでおり、右側のシートに3人、左側のシートに1人が座って、「国土防衛会議」の様子に見入っていました。

 右側のシートに座っているのは、伊勢信一郎に連れられて来たファミリーオフィス銀座の所員、保険のスペシャリストでリーダーの栗原美雪、元公立中学校国語教師の坂元八造、元外資系投資銀行のトップアナリストだった金田俊哉の3人です。

 彼らは何も知らされないまま連れて来られたので、政府高官やファミリーオフィス銀座の超上級層の顧客が理事として列席していることに先ず驚かされました。

 やがて、ジリリーンと呼鈴の音が鳴り響き会議が開始しました。

 「坂元さん、あれ内閣官房長官ですよ。あっちには、防衛大臣も。何なんですか、この会議は。」と、若い金田俊哉は興奮し、隣の坂元八造に問いかけます。

 「どうやら秘密の会議みたいだ。前に金田くんが言っていたように、うちのオフィスは何か特別だ。ボスも列席しているぞ。」と、坂元八造は末席に座る所長の伊勢信一郎を見つけて言いました。

 「う~ん、ボス、さすが決まってますね。」と、感心して唸る金田俊哉。

 「あの、議長らしい紺色の着物の老人の存在感も凄いぞ。誰だろう。」と、坂元八造はよく見ようと前かがみになり凝視します。

 「えっ、うそ。妻の父親のさかき教授だ。」と、坂元八造は仰天しています。

 「坂元さん、それは本当ですか。あの人はボスの恩師らしいです。一度、電話を取り次いだことがありますけど、あの口調だったので間違いないです。」と、栗原リーダーが振り向いて答えます。

 「もう俺、何がなんだか分からないよ。」と、坂元八造は呆然としています。

 しかし、栗原美雪はさかき理事長が坂元八造の義父であることよりも、左側のシートに座って傍聴している女性の方が気になるようです。

 左側のシートには、40代位の女性が一人で座っています。ブラックとホワイトの上質のツイード生地で作られたワンピーススーツに、ブラックパールのネックレスをしています。肩に届く位の髪は少し栗色に染めて軽い感じにし、毛先を緩い内カールにしていて、とても上品です。そして、膝の上にはブランドのロゴがない、しかしとても高級そうなブラックのポーチを置いています。

 「きれいな人ですね。」と、金田俊哉が坂元八造に囁き(ささやき)ます。

 「奥様、って感じだな。誰だろう。」と、やっと正気に戻った坂元八造はちらっと女性を見て答えます。とりあえず、現実は現実として受け止めようと覚悟したようです。

 特別会議室では、ちょうど伊勢信一郎がさかき理事長に指名され立ち上がったところです。栗原美雪は、この女性が伊勢信一郎が立ち上がった時に反応して体を前に傾け、注視しているのを見逃しませんでした。

 「あの女性ひと、どこかで…」と言ってしばらく考えていた栗原美雪は、突然立ち上がり坂元八造と金田俊哉があっけにとられる中、女性に近づいて行きました。

 「あのう、失礼ですが、もしかしたら私が幼稚園児の頃、京都のかすみ会館で遊んで頂いた方では」と、栗原美雪が話しかけると、女性は優雅に栗原美雪の方に顔を向け、やさしく微笑んで返答しました。

 「ごきげんよう、しばらくね。きれいになったわね。みいちゃん。」

 栗原美雪は女性の横に座り、二人は手を取り合っています。とても親しそうです。

 「なんだ、あの二人知り合いなのか?」と、坂元八造は驚いた様に金田俊哉に聞きます。

 「美女二人は絵になりますねえ。でも、やっぱり栗原さんはあっち側の人なんですね。」と、がっかりしたような金田俊哉。

 「なんだよ、あっち側って。」

 「坂元さん、栗原さんは僕らと違って特別な、上流階級の人なんですよ。そんな匂いがしていたんだよなぁ。」

 「いやらしいな。匂いって。」と、坂元八造は言いながら、なぜか納得しました。

解説

 かすみ会館は、東京都千代田区の霞ヶ関ビル内に主たる事務所を構える、一般社団法人です。 霞ヶ関ビルの敷地所有者でもあります。そして、京都市上京区にも京都支所を置いています。このかすみ会館の成り立ちです。

明治2年(1869年)6月、版籍奉還と同時に華族が設置される。

1874年6月、岩倉具視いわくらともみ三条実美さんじょうさねとみの斡旋により、華族通款社と麝香間祇候じゃこうのましこう会議が合同し、華族の研学討論機関としての華族会館を設立する(初代館長は有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう)。

1876年4月、岩倉具視が館長に就任、間もなく会館に部長局設置し、華族の「自治的統制機関」としての運営を開始する。第十五国立銀行創立(1877年5月)、学習院創立(1877年6月)、日本鉄道会社の設立(1881年11月)などの事業を行う。

1882年11月、華族部長局廃止、宮内省に華族局設置する。

1884年7月、華族令公布する。

 以降も華族陸軍予備士官学校の創立、戦争・災害への慰問 や学習院に対する奨学金授与、その他文化活動を行う。

1904年4月、社団法人化する。

1947年5月、名称を「かすみ会館」に変更、現在に至る。

(国立国会図書館 「華族会館関係文書」の主な内容より)

 このように、華族の研学討論機関として設立された華族会館は、鹿鳴館ろくめいかんの一部を借り、やがて鹿鳴館ろくめいかんの払い下げを受けます。この華族会館取り壊し後、その跡地に三井不動産が現在の霞ヶ関ビルを建設するのです。

令和6年6月1日、かすみ会館の創立150年記念式典(華族会館設立から150年)には天皇皇后両陛下が私的に出席されています。

一般社団法人 かすみ会館は、その定款にて、

・国家・社会への貢献

・伝統文化の伝承

・皇室の藩屏

・会員の品位保持と連帯

を基本理念としています。

 また、政治、経済、社会、文化等各方面にわたって国際的な視野から調査研究し、日本固有の伝統的な精神文化を後世に伝え、もって健全な国民の育成及び社会福祉の増進に寄与することを目的としています。

 かすみ会館の収入は霞ヶ関ビルの敷地地代及びテナント料が主となっています。

 定款の会員規定にはありませんが、 旧華族の爵位を持つ当主の直系子孫が会員となり、その夫人や令嬢も会館を利用しており、年数回一堂に会するという、一般庶民とは違う世界がそこにはあるようです。そのことを、金田は「あっち側」とか「僕らと違って」と表現したのですね。