7. 元教師の再就職

2025年4月29日

まえがき

 勇退した坂元八造の再就職先は。

ストーリー

会議室

 東京都足立区荒川の公立中学校国語教師を定年退職した坂元八造はしばらくはゆっくりしたいと考えていたのですが、妻一美ひとみが一人息子の一八かずや夫婦との二世帯同居を夢見ていることを知り再就職にすぐ動き出すことにしました。

 坂元は生まれて初めて自分のためにハローワークに来ました。教師の頃は卒業生の就職あっせんをお願いしに何度も来たことはあったのですが、恥ずかしいと思ったことはありませんでした。でも今回は知り合いに会ったらどうしようとオドオドし、「六十の手習い」ではなく「六十の恥じらい」を持って求職の登録をしたのでした。それから2~3日に一度は検索パソコンの画面で求人票を見に来ていますが、なかなかこれという求人は見つからず、応募しても書類選考で落とされ続け、あっという間に5ヶ月経ちました。

 見かねた妻が大学名誉教授をしている父に相談し、教え子が開業するので人手が要るという話を頂き、面接を受けることになりました。 

 銀座四丁目の和光時計台の近くの昭和レトロな雑居ビルの3階に、玄関横にのみ看板を掲げた事務所があります。事務所内の会議室で坂元は一人面接を待っていました。ホワイトで縦のピンストライプが入った壁、光沢のあるアイボリーのフロアタイルで上品で明るい色調の部屋です。とても昭和レトロな雑居ビルの中とは思えません。

 室内には10人用の広い木目調のテーブルが置かれ、入口と反対側の壁際にホワイトボードがあります。テーブルの上にはウエッジウッドのティーカップの紅茶だけが置かれています。栗色の髪を後ろでまとめてメガネをかけた黒いスーツ姿の長身の女性が出してくれたものです。

 「大丈夫ですよ。うちのボスは優しいから。」と彼女は坂元にささやくように言いました。 

 ノックが2回鳴った後、一人の男が入室して来ました。ダークな紺色のダブルスーツ姿で、イタリア物か派手なネクタイをしています。坂元は「自分より10歳ほど若いくらいだろうか」と思いました。整った顔立ちに黒い髪はワックスできれいになでつけられたようです。身長はどうみても180㎝以上あり、がっしりした体格ですが、ドアから歩いてきて「失礼」と言って座る姿は銀行の支店長のようでそれよりも上品な雰囲気があります。坂元は不思議なオーラを感じました。

 「坂元八造さんですね。オフィス代表の伊勢信一郎です。あなたのことは先生から話をうかがっております。履歴書は拝見させていただきました。」と男は低音の魅力的な声で坂元に話しかけました。

 「当社のお客様には特別な地位の方で団体の役職につかれている方が多いのです。その中にはご子息の後継者問題でお悩みの方もおられます。あなたが教師として長年身につけてこられた知識と経験をこの課題の解決のために役立てていただきたいのです。」と言って彼は坂元の目をしっかりと見て微笑みました。

 坂元は定年退職後かなり弱気になっていたのが表情に出ていないか心配しました。彼に全てを見透かされているように感じたからです。大学教授の義父からあらかじめ自分のことを色々と聞いているのでしょう。

 「これまで真摯に生きてこられた、それはあなたの人間的魅力となっているようですね。初対面の方でもあなたには安心感を抱くように思います。そして信頼されるのも早いでしょう。それがこの仕事では大切なことなのです。我々は顧客の全てを知り、顧客が家族にも話せない内容の秘密も守り、執事のように完璧にこなさなければなりません。坂元さんにはそのために尽力し、秘密を守る覚悟はおありですか。」

 坂元はおもわず身を前に乗り出し、両目を見開いて言いました。

 「ぜひ、やらせてください。私にできることはやります。どうか、お願いします。」

解説

超富裕層の資産管理

 日本の超富裕層は全5,413万世帯のわずか 0.16% を占めているに過ぎず、 9万世帯だけです。その純金融資産保有額の平均は11.6億円です。これは全世帯の純金融資産保有額の 6.43%も占めています。(野村総合研究所推計)

 彼らは三大都市圏に集中して居住しています。保有資産の保全・運用には一族が関わっています。そしてその資産の大きな部分を株式公開企業であれ非公開企業であれ、自社株が占めているのです。この一族の資産保全・運用を計画・実行することと、本体事業の法人経営とは分離して管理しないといけません。法人の役員や従業員に一族の仕事を兼任させることは企業経営の透明性を損なうことにもつながりかねません。

 そのため、超富裕層・富裕層の一族資産の保全・運用の事務をプロフェッショナルである外部機関の「ファミリーオフィス」が担うことになったのです。日本でも今後、会社経営に関与しない相続人が株式を相続し、それを大量に市場で売却することが予想されますので、「ファミリーオフィス」の重要性は増していくことでしょう。

 日本では特定の一族のためだけに設立されたファミリーオフィスではなく、同規模の複数の超富裕層・富裕層一族にそれぞれ合わせて資産の運用管理する「マルチクライアント・ファミリーオフィス」が独立系で設立されていくことでしょう。

 坂元さんの就職先も独立系のファミリーオフィスなのですが、ただの超富裕層・富裕層というだけではない特別な地位の方々を顧客としているようです。